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2009年11月 アーカイブ

2009年11月02日

生物濃縮

生物濃縮(せいぶつのうしゅく)は、ある種の化学物質が生態系での食物連鎖を経て生物体内に濃縮されてゆく現象をいう。生態濃縮、生体濃縮(せいたいのうしゅく)ともいう。

疎水性が高く、代謝を受けにくい化学物質は、尿などとして体外に排出される割合が低いために、生物体内の脂質中などに蓄積されていく傾向がある。特定の化学物質を含んだ生物を多量に摂取する捕食者では、さらに体内での物質濃度が上昇する。食物連鎖の過程を繰り返すうち、上位捕食者ほど体内での対象化学物質濃度が上昇する。魚介類中のドコサヘキサエン酸、フグやイモリなどの毒、貝毒、季節的なカキの毒化なども、生息域の細菌や餌となる生物によって合成された化学物質が生物濃縮で取り入れられたものである。
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生物濃縮に類似して生物蓄積の用語があり、英語の Bioaccumulation の訳語とすることがある。これは生物蓄積が有害物質が水などの環境媒体から生物体内へ濃縮される過程(生物濃縮 )と食物連鎖により増強される過程とを合わせたものであるためである。
生物濃縮による環境被害は、レイチェル・カーソンが著書『沈黙の春』でDDTなどによる生物濃縮問題を論じたことで、よく知られるようになった。すなわち、上記のような生物濃縮されやすい物質の性質を、たとえば一部の農薬や重金属も持っている。農薬の場合、水に溶けにくいことや分解しにくいことは、実際に農地に散布した場合にその効果が長く保てることから、優れた性質と考えられていた面がある。

2009年11月13日

薔薇戦争

薔薇戦争(ばらせんそう)は、百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱。1455年5月にヨーク公リチャードがヘンリー6世に対して反乱を起こしてから、1485年にテューダー朝が成立するまで(1487年6月のストーク・フィールドの戦いまでとする見方もある)、プランタジネット家傍流のランカスター家とヨーク家の間で戦われた権力闘争。

ランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇を紋章としていたので薔薇戦争と呼ばれているが、薔薇戦争という呼び名については後世のこととされる。

百年戦争に苦戦していたイングランド王リチャード2世は、王族・諸侯・市民の支持を失い、頻発する反乱に悩まされ続けていた。目障りな存在であった重鎮の叔父・ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが死去すると、リチャード2世はジョン・オブ・ゴーントの嫡子ヘンリー・ボリンブロクに領地没収と国外追放を命じた。

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これに対しボリンブロクはリチャード王の退位を要求して兵を挙げ、逆に王を捕えて幽閉した。1399年、ボリンブロクはヘンリー4世を称して即位し、ここにランカスター朝が成立したが、国内にはリチャード2世派の残存勢力や自らの王権を否定する勢力が活発であったため、ヘンリー4世は国内統一の戦いを続け、治世晩年にようやく国内を安定させることができた。

1413年、ヘンリー4世が死去するとヘンリー5世が王位を継承した。果断な性格であったヘンリー5世は、国内が安定していたことから中断していた百年戦争を再開すると、1415年自ら兵を率いてフランスへ侵攻し、アジャンクールの戦いにおいてフランス諸侯の連合軍を打ち破った。

2009年11月27日

聖像破壊運動

聖像破壊運動(せいぞうはかいうんどう、イコノクラスム)とは、8-9世紀のキリスト教において、聖像(イコン)の崇敬が禁止され、聖像を破壊した運動のこと。東ローマ帝国内を二分する争いになったほか、西方のローマ教会(のちのカトリック教会)はこれを非難し、聖像破壊論争が起こった。

聖像破壊運動は終局的には第七全地公会において異端と断じられ、東ローマ帝国地域でもイコン崇敬は復活した。こんにちでは西方教会よりもむしろ東ローマ帝国の旧版図の教会伝統を継承した正教会においてイコンが盛んに描かれているが、その神学的正統性の論拠は聖像破壊論争の時代に再確認かつ強化された。

730年、シリア出身の東ローマ皇帝レオーン3世は、イコン崇敬を禁じる勅令(聖像禁止令)を発した。これには旧約聖書のモーセの十戒に挙げられている「偶像を作ってはならない」が根拠とされた。しかし、この勅令は帝国の小アジア側や一部の聖職者・知識人には支持されたものの、古代ギリシア文化(古代ギリシアの宗教は神々も人間の姿をしていた)の伝統の残る首都コンスタンティノポリスや帝国のヨーロッパ側の国民、およびイコンの製作に主として携わっていた東方教会の修道士達の猛反発を招き、文化的・政治的な問題も絡んで帝国内部を二分する大論争となり、帝国のヨーロッパ側では反乱まで起きた。この対立は、元来オリエントの宗教であったキリスト教がギリシャ化していく中で発生したものであった。

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レオーン3世がこの時期に聖像禁止令を出した理由は、明らかになっていない。聖像崇拝が復活した後、聖像破壊派の著作などは異端の書として破却され、現代に残っていないからである。レオーン3世の時代より以前から聖像崇拝への疑問や批判は出ており、他にも火山の大規模噴火などの天災、偶像を否定するイスラム教からのキリスト教に対する批判、などが要因として挙げられているが、未だに定説となるような理由は見つかっていないのである。

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