和議は堀の破却を条件に結ばれた。しかし、徳川方は恒久講和など考えておらず再び豊臣を攻め滅ぼすことも算段に入れており、和議は謀略であった。幕府方は堀を突貫工事で埋めてしまう。堀のない城は裸城同然であるため、大坂方はこれに抗議するが、逆に浪人の総追放や国替えを要求された。
翌慶長20年(1615年)、大坂方は浪人の総追放や国替えを拒否、堀を掘り返し始めたため、家康は大坂城への侵攻を宣言、大坂夏の陣が起こる。
大野治房が軍勢を率い大和郡山に出撃、制圧・略奪して帰還する。豊臣方は阪南から北上してくる幕府の大軍を、数で劣る自軍でも撃退できるよう狭い地域で迎え撃つべく、主力軍が八尾方面に進軍。八尾・若江、道明寺で戦い、長宗我部盛親が藤堂高虎勢を壊滅させた。ただ奮戦した木村重成、後藤基次が討ち死に、撤退する。また紀州の一揆勢とともに浅野長晟を討つべく大野治房らが出撃するも、樫井の戦いで先方の塙団右衛門が浅野軍に破れ、本隊が到着したときには浅野勢は紀州に撤退済みだったのでなすすべもなく帰城する。
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敗戦続きで兵力が疲弊した豊臣方は家康、秀忠が大坂に布陣したところに最終決戦を挑む。天王寺・岡山の戦いである。信繁は豊臣軍の士気を高めるために秀頼出陣を望んだが、結局果たせなかった。淀殿が我が子かわいさのために頑強に首を縦に振らなかったと言われている。
岡山口方面では大野治房率いる軍勢が徳川秀忠本陣に切り込むまで追い詰めるが、態勢を立て直した幕府の大軍の前に撤退を余儀なくされる。
天王寺方面には真田信繁、毛利勝永らが布陣。真田信繁は「日本一の兵(つわもの)」と敵味方関係なく絶賛されるほどの獅子奮迅ぶりを見せ、立ちふさがる徳川方を次々と蹴散らし、ついに家康本陣へ肉薄。数度にわたる壮絶な突撃を敢行した。家康に自刃を覚悟させるほどにまでに追いつめたが、仕留めきれなかった。その後、信繁は退却中に力尽き討死に。他の豊臣方の部隊も次々と壊滅していった。